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ブログ大黒流

毎日が大黒流
内田改造さんの思い出
内田さんがお亡くなりになられました。

内田さんは大正12年生まれで戦前は川口町に、戦後下洲崎町(現在の須崎町)にお住まいでした。昭和33,34年下洲崎町の取締を務められ、昭和56年のすノ三当番の年には体調を崩された故国崎秀法さんに代わって急遽当番町の町総代を務められました。この年から昭和62年まで町総代を務めておられました。

昭和33年の取締記念写真(後列右から二人目)
昭和33年取締記念写真


昭和56年のすノ三当番記念写真
昭和56年当番記念写真

内田さんは焼印屋さんでした。お伺いすると焼印の型を作っていらっしゃったことを思い浮かべます。仕事が一段落するまで黙って眺めていました。職人としての誇りを持って仕事をなさっておられたのだと思います。

型紙から焼印の方を彫っておられました。
内田さん焼印の型紙

うちの親父と親しかったので、自分も可愛がっていただきました。川口町時代の話や、戦後の山笠や松囃子の話も聞かせていただきました。

内田さんが書かれた博多手一本についての考察です。諸説ありましょうがご一読ください。

《博多手一本についての考察》
博多手一本とは、会合の最後に、その間に話し合われた申し合わせ事項決議等、直会を含めて無事目出度く終わったと謂う事を全員で確認し後日異議を唱えないという約束を形に表したもので、解散の合図とも成る。
以上は典型的な手一本であって、その外いろいろの名場面で行われるが、何れの場合でも賛成合意の證として行われる固い約束の所作である。
手一本の音頭はその座の長、亦は之に準ずる者がとり、これが入ると全員一斉に席を起つ、これが博多の真骨頂でもあり、しきたりでもある。

解釈とその要領
両手を肩の巾に拡げ、声を出す構えに入り、息を吸い込むと自然に肩が上がる、この肩に力を入れて下ろし乍ら声を出すと腹の底から力強い声が出る。
「いよーシャンシャン」、これがきっかけの掛声で第一回目、一回では心細いのでもう一回しようと云う事で、「も一つしようシャンシャン」、二回手を打ったが、更に念を入れて三回と云う事で、「よーと三度シャシャンシャン」と成る。博多ではよく念を入れる事を「よーと」と云う。よーと勉強する様に、よーと戸締りする様にとか。
「よーと三度」の抑揚節回しは「よーと」の「と」と「三度」の「ど」の音が下がらない様にする。むしろ上げ気味、民謡の「大漁唄い込み」のエンヤトットと同じ音階。

【追記】
博多祝い唄、合唱の仕様
音頭とりが第一小節を独唱、二小節目の繰り返し部分より合唱となる。

大黒流 すノ三 内田改造




お通夜 4月7日 午後7時
お葬式 4月8日 午前11時
会場はともに善龍寺(中央区唐人町1丁目8番)

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
| メモリアル | 12:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
【訃報】黒岩富重元取締ご逝去
黒岩さんは、昭和43年に当番町の取締を務められました。黒岩弘治現つノ一取締、又、そのお兄さんの黒岩誠一元取締、黒岩健二元赤手拭のお父上であります。
昭和38年から昭和40年まで旧町大下の取締、昭和41年から昭和43年まで新町対馬小路の取締、昭和43年には当番町の取締を務められました。

我々若い者にも気安く声をかけていただきました。故徳重純司さんと大変仲が良く、当番法被姿でお出かけになられていたことを思い起こします。

昭和43年当番町取締記念写真
昭和43年取締記念写真

昭和43年7月15日 櫛田入り渾身の台上り。
昭和43年櫛田入り

平成20年7月8日午後5時58分永眠されました。
謹んでご冥福をお祈りいたします。

通夜 7月9日 午後7時
葬儀 7月10日 午前10時 出棺 午前11時30分
いずれも、ベルコシティ博多で執り行われます。
| メモリアル | 09:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
【訃報】和田前すノ三町総代がご逝去されました
平成20年6月5日午前8時、和田壽雄前すノ三町総代がご逝去されました。

葬儀などの予定は以下のとおり執り行われます。

通夜 平成20年6月6日 午後6時より
葬儀 平成20年6月7日 午前11時より
会場は ベルコシティホール博多
福岡市博多区博多駅前3丁目3−18 092-452-4242

和田前町総代は、昭和43年から昭和44年まで取締、平成2年から平成19年まで町総代を務められました。その間、平成4年、平成16年の2回当番町の町総代を務めておられます。すノ三取締の和田民雄君のお父上です。

昭和44年7月12日櫛田入り、取締時代の和田さんです。前捌きです。
昭和44年追山馴し櫛田入り

平成4年当番町記念写真
平成4年当番記念写真

平成16年当番町記念写真
平成16年当番記念写真

壮健な身体の和田さんでしたが、今年に入って町総代を青木桂司さんに譲られ闘病生活を送っておられました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
| メモリアル | 16:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
萱島秀渓先生ご逝去
4月15日萱島秀渓先生がお亡くなりになられました。享年75

秀渓先生の山水画の垂れで飾られた平成16年の傘鉾
平成16年の傘鉾

萱島先生は、永年に亘って大黒流の傘鉾の絵師をお願い致しておりました。昭和54年の当番町の時には既に秀渓先生にお願いしていたので、それより以前からのお付き合いであることは間違いありません。

平成20年の垂れは既に描きあがっており、秀渓先生の遺作となります。5月3,4日にはぜひご覧頂きたいと希います。

長い間ありがとうございました。

| メモリアル | 15:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
松永邦清さんの思い出
松永さんは、昭和59年から平成9年まで14年間に亘って麹屋番の取締を務めておられました。自分とは平成5年から8年まで一緒で、いつだったか、12日のくじで15日の決勝点を引き当てて大喜びしていた姿が目に浮かんできます。その後が大変で、各町の詰所を廻って最後はつノ一の詰所で寝てしまったものです。つノ一の若い人たちはさぞかし迷惑だったことでしょう。
とにかくいつもいつでも、酒飲んでガハハと元気にやっていてそのうちグースカピーと寝てしまって...

昭和62年は一番山笠の当番でしたが、このとき松永さんは当番町取締の重責を果たされました。この年の山笠人形は、大黒さんではなく大国主命でした。棒も台も新調された年でした。

赤手拭時代の懐かしい姿です。
赤手拭のころ

溌剌とした取締時代です。
取締のころ

昭和62年の当番記念写真です。町総代は故河原田さんでした。
昭和62年当番記念

昭和62年の手打ち風景です。
昭和62年当番町

一番山笠櫛田入り、もちろん棒捌は松永さんです。
昭和62年一番山笠櫛田入り

松永さんは平成20年2月17日急逝されました。未だ55歳、さぞかし無念であったと推察しております。

謹んでご冥福をお祈りいたします。
| メモリアル | 14:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
【訃報】すノ二元町総代増田長彦さんご逝去
12月9日、すノ二の元町総代を務められた増田長彦さんがご逝去されました。

葬儀は以下のとおり執り行われます。

日時 平成19年12月12日(水) 正午より
場所 馬出典礼会館
福岡市東区馬出一丁目11番15号 092-632-0983

増田さんは、昭和63年、前任の山本隆敏さんに代わって町総代の役に就かれ、翌平成元年、阿部浩之助さんにバトンを渡されました。
平成17年に亡くなったすノ二元取締増田健治君のお父上であります。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
| メモリアル | 18:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
大塚定男さんのこと
大塚さんは昭和30年代に下洲崎町の取締を務められておりました。また、平成7年から10年まで、4年間すノ一の町総代を務められました。平成8年には、取締大塚茂喜君と親子で当番町の重責を負われました。

昭和38年当番町取締を務められたときの下洲崎町記念写真
昭和38年下す当番記念写真

平成8年のすノ一当番町記念写真
平成8年当番町記念写真
昭和31年の松囃子
昭和31年松囃子
昭和31年の追山馴し、二番棒右肩棒鼻
昭和31年追山馴し
屈強な身体と温和な人柄で大黒流の皆に慕われた大塚定男さんが平成19年10月21日午前6時30分永眠されました。

10月22日 午後6時 通夜
10月23日 午後1時 葬儀
共に古小烏町積善社福岡斎場で執り行われます。合掌

| メモリアル | 21:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
メモリアル
今年は追善山が7軒ありました。各町を巡った追善山の模様と、故人の思い出をつづります。

まだ画像を入手していませんので、おいおい拡充していきたいと考えています。不完全ですがご容赦ください。

1軒目は、古ノ二の牧尾家です。
町総代を永く勤められた牧尾孫三郎さんの追善です。牧尾さんは、昭和45年から平成17年まで36年に亘って古ノ二の町総代を務められました。その間、昭和48年昭和57年平成5年平成17年と4回、当番町町総代として流をまとめてこられました。櫛田神社宮総代を永く務められ、亡くなられるまで責任役員を務められていました。そのほか、博多松囃子振興会会長、博多祇園山笠振興会副会長、参与などを歴任され、博多の町に貢献されました。

牧尾家追善

昭和57年の山笠当番のときです。
故牧尾孫三郎元町総代


平成5年二番山笠の当番のときの町総代記念写真です。
平成5年二番山笠

2軒目は古ノ一の三野家です。
三野拓蔵さんは、昭和33年から40年まで古門戸町取締、昭和41年から昭和52年まで古ノ一の取締を務められました。通算20年間の長きに渡るものでした。平成10年から18年まで9年間古ノ一の町総代を務められました。昭和44年古ノ二との合同当番、昭和52年には当番町取締、平成12年には当番町町総代を務められました。

三野拓蔵さん


昭和44年の古門戸町二町当番の当番町記念写真です。新体制となってまだ日が浅いころですので、当番法被も旧町時代のもので揃っていないころです。
昭和44年古門戸町合同当番

本山、森下、光安櫛田神社責任役員も弔問に訪れました。青木町総代、森元町総代のお顔も見えます。
平成19年古ノ一追善

静かに山を迎えています。
平成19年古ノ一追善

いよいよ山がやってきました。
平成19年古ノ一追善

祝い芽出度を唱和します。
平成19年古ノ一追善

3軒目はすノ一の古本家です。
古本精之助さんは、昭和39年、40年下洲崎町取締、昭和44年、45年すノ一取締、平成5年、6年すノ一町総代を務められました。

古本家追善

古本精之助さん


昭和38年の若き日の写真です。一番左が古本さんです。
昭和38年下す


4軒目は麹屋の河原田家です。
河原田穣平さんは、昭和33年から昭和37年まで麹屋町の取締、昭和56年から平成12年まで20年間町総代を務められました。
昭和37年には当番町取締、昭和62年、平成11年の2回当番町町総代を務められました。

河原田家追善

河原田家追善

河原田穣平さん


5軒目は寿通の久家家です。
久家義松さんは、旧町時代の昭和36年から昭和59年まで24年間寿通町総代を務められました。この間、昭和41年の五町当番、昭和49年の麹屋との合同当番、昭和58年と3回の当番町町総代を務められました。

久家家追善

久家義松さん


昭和37年の町総代記念写真です。
昭和37年町総代記念写真


久家さんは、100歳を過ぎられても矍鑠とされた方でした。

6軒目は川中の内藤家です。
内藤晴之さんは、昭和31年から昭和37年まで東下新川端町取締、昭和45年川中取締、昭和57年から平成6年まで13年間川中町総代を務められました。昭和45年には当番町取締、平成元年には当番町町総代を務められました。

内藤晴之さん


祭壇です。写真を多数飾ってあります。思い出のDVDを一番棒左肩君が編集してくれました。
川中追善

町内の皆さんと遺族で山を待ちます。
川中追善

祝い芽出度を唱和しています。
川中追善

川中追善

手一本のため台上りが棒の上に降りています。街内は流の皆さんで埋め尽くされます。
川中追善

山が去っていきます。
川中追善

その後もお参りが絶えませんでした。お参りの後姿は麹屋の松永邦清さんです。
川中追善

仲が良かった内田改造さんもお参りに見えました。松尾醇之助さん、手嶋秀嗣さん、今石貞次郎さん、阿部浩之助さん、大勢の皆さんにお参りいただきました。
川中追善

7軒目は川端の渡辺家です。
渡辺精二さんは、昭和30年31年川端町の取締を務められました。

渡辺精二さん


昭和26年の追山馴し櫛田入りです。お歳を召されてからの渡辺さんからは想像も出来ない姿です。
昭和26年追山馴し櫛田入り

平成19年川端町追善祭壇

平成19年川端町追善祭壇

最後は大黒流の功労山、合同追善です。十二ヶ町の取締と遺族で追善を受けます。

古ノ二の深見正次郎さんです。
深見正次郎さん


平成19年7月13日は大黒流にとって空前の一日となりました。

| メモリアル | 18:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
津田久仁紀君のこと
今日は話題がありません、山台苦のおいしゃんにがんばってもらうしかないのですが、土居流の山小屋を建てている真っ最中でもあり、山笠こさえも追い込まれていることでしょう。

津田久仁紀君とは、南博幼稚園のぞみ組以来の付き合いでした。下土居町の有名なおいしゃん兄弟の一番下の弟や、山台苦のおいしゃんの下の弟ともそのときからの付き合いです。

平成13年の櫛田入りの出の写真(大黒流総合サイトから)です。この年の櫛田入りは波乱の連続でした。最後のこの場面で津田君が転んでしまい、法被を掴んで引っ張り起こしました。棒鼻が真後ろまで迫ってきたのを肌で感じるくらい切迫した状況でした。皆の視線が津田君に注がれているのが分かります。
平成13年櫛田入り
法被を掴んで引き上げたときの感触が忘れられません。法被が少しギシと鳴ったような感触でした。しかしながら津田君は自分で起き上がったものだと思っていたようです。転んだのは病に冒された体が彼の思い以上に弱っていたのだと思っています。

津田君は翌14年に46歳の若さで永眠しました。亡くなる前年のこの年が最後の山笠でした。なかなか会って一杯やる機会がなくて、法被を掴んだこの時が津田君との最後の接触となってしまいました。悔やんでいます。

毎年、津田君の家の前を通るときは山についています。すノ一の先輩小林さんもそう心がけておられます。自分にとって今年はそれが適わないことが残念です。

昭和最後の一番山笠当番となった昭和62年の追い山櫛田入りです。
昭和62年の櫛田入り

津田君の右肩鼻取姿です。赤手拭の頃は左肩二番棒鼻が彼の定位置でしたが、取締になってからの鼻取姿も格好の良いものでした。体格も良く上手な鼻取で、小林さんと左右の鼻を取っていたことを思い出します。


懐かしい十代後半の写真が出てきました。右から二人目が津田君です。右端は同じく若くして亡くなられた千鳥足の兄上です。
若いころ

山笠姿が良い男でした。
| メモリアル | 19:12 | comments(1) | trackbacks(0) |
【訃報】三野拓蔵さんご逝去
古ノ一の三野さんがお亡くなりになられました。

三野さんは、昭和33年から旧町時代の古門戸町の取締、新体制になって古ノ一と取締を永く務められました。昨年まで古ノ一の町総代を務められておられました。

昨年来体調を崩され入院なさっていたことは聞き及んでいました。これほどだとは思ってもおりませんでした。

葬儀は密葬で行われ、本葬は、4月21日(土)午後2時より、積善社福岡斎場で執り行われます。

昭和48年は記録映画の撮影が行われました。12日の鏡割りも赤手拭だけではなく流全員で行いました。横でびっくりした顔をしているのは洞さんですね。後に葉山さんの顔も見えます。元の写真はにぎやかな顔ぶれです。
昭和48年7月12日の三野さん
三野さんと言えば梅月堂の味噌せんべいです。子供のころ山笠で味噌せんべいを貰って帰っていました。この話は又7月に。

謹んでご冥福をお祈りいたします。
| メモリアル | 17:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
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